GEM Impact history

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1996年、大阪大学の卒業を目前に、日比野も他の学生にならって就職活動を行っていました。
せっかくの機会だから、と、銀行を除く全業種に向けての活動を行っていました。

そんな中、一番自分が共感するビジョンを持てた会社が、「餃子の王将」。
当時から関西にて、ジャズの世界でプロに混じってサックスプレイヤーとして活動を始めていたので、
音楽で飯を食うこと=演奏で稼ぐことが、どれほど大変であることか、身にしみて感じていました。
それならば、自分で店を出来る様になれば、ライブハウスを経営しながら演奏を続けることが出来る、
そう考えたのです。

ところが、その「餃子の王将」の内定に、家族を含め周りの猛反対に。
「大学まで何の為に行ったのか・・」という思いだったと思います。
どうしても自分の気持ちが整理出来ず、結果で「音楽で食える」ことを示すしかない、
という思いから、サックスだけを持って、家を飛び出しました。

その足で、トラックドライバーの仕事を見つけ
(早朝~昼までの仕事でしたので、ライブ活動と両立出来ました)、
文房具屋で印鑑を2つ買い、職場の側の激安アパートを借りて、
「音楽で食う」生活へのチャレンジが始まりました。

持ち合わせるお金や家財道具も無く、周りのミュージシャンから実に多くの助けを頂きました。
そんな中、「演奏だけではなく、作曲・アレンジという食いぶちがある」ことを知り、
その為に専門に勉強を深めたい、と強く思いました。

運良く、バークリー音楽院からも多額の奨学金が下り、
何とか私の稼ぎでも学校に入ることが出来ました。
そこで、「コンピューターで音楽を作る」という仕事に出会ったのです。

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バークリー音楽院では、ジャズの作編曲を専攻として学びましたが、とにかくお金がなかったので、
少しでも滞在期間を短くして出費を抑えるために、
全課程を4セメスター(1年3ヶ月)で終わらせなければいけませんでした。
その間、ミュージックビジネスから、映画音楽、エンジニアの学科まで、とれるものは何でも詰め込み吸収する様にしました。

ジャズのアレンジの学びの中で、管楽器のセクションのアレンジを学ぶのですが、
「これをシンセサイザーで応用するとどうなるのだろう」という疑問が出てきました。
生楽器であるが故にいろんな音域や技法の制限があるのですが、シンセサイザーであれば、
何をやっても「あり」なはず。

その発想から、シンセサイザーのラボに終日浸って、まだまだ当時の遅いMacに向き合い、
いろんな楽曲を作りました。当時は、それらの機材はまだまだ一般の人が揃えるには高過ぎたので、
そのような最先端の機材にふれあえたことは本当にラッキーでした。

子供の頃から、本当に「楽器」が好きで、夢の中に何度も、押し入れを開けると
シンセサイザーやギターの群れがでてくる情景が出て来ていました。
そんな、楽器に囲まれた環境で仕事が出来たら、どんなに嬉しいだろう、と、
常々思っていましたが、それが少しずつ、現実味を帯びて来たのです。

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バークリーの学びを終えて、まず「食いぶち」を確保しなければ行けない現実と、
また英語力が十分でなかったため、アメリカの企業で働いてみようという私の思いがあり、
カンザスシティに本社を置くAmerican Multi Cinemaという会社に就職しました。

たまたま会社が日本進出を検討している最中、バイリンガルの劇場支配人を募集していたのです。
運良く私は採用となり、卒業後すぐにカンザスシティの地にて仕事を始めることになりました。
そこでは、「映画館」という一つのビジネス集合体(劇場、飲食、興行)の全てを学ぶことが出来、
「経営とはこういうものか」ということを、身を以て学びました。

そんな中でも思い出深いのが、黒人の子供を抱えたお客様に、劇場内でその方の子供が泣き出した為に、
「すみませんが外に出て頂けませんか」とお願いをしたときのことです。

アジア人の私がそんなことをいうものですから、彼女からは白人と黒人の人種差別だ、
という風にとられてしまい、ものすごいお叱りを受けたことがありました。
本当にショックでしたが、そんなところに、まだ人種間の壁というのがあるのか・・
ということを痛切に感じました。

また、アメリカ人のスタッフは、どんなに劇場が大変でも、
プライベートを犠牲にして残業することは決して無い、というカルチャーや、
意外とパーソナルなつながり(いわゆるコネ)を大事にする所がある、など、
アメリカの文化ということに関しても、随分と色々と教えられることがありました。

1年間の勤務の後、福岡の中間市というところで、
16スクリーンの映画館を立ち上げることになります。

アメリカから同時に帰国したスタッフとともに立ち上げを行ったのですが、
これが、本当に楽しい思い出でした。皆、今でも良い友達です。

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映画館の仕事の傍ら、カンザスシティでも、福岡でも、演奏活動だけは合間を見て続けていました。
狭いジャズの世界ですので、1年もいれば、その地域のミュージシャンとは
ほぼお知り合いになります。

朝は劇場勤務、16時には退社、福岡に向かって夜のステージを行い、深夜2-3時に帰宅、
という生活を続けていました。

そんな折、ゲーム会社のコナミが、作曲家を募集しているという話を聞きました。
当時は、ジャズの演奏家の間でゲームの仕事をしているというと、
「ああ、あんたも食えないミュージシャンだね」という認識をされる時代でした。
いわゆる、「着メロ」全盛期です。

ゲームで生のオーケストラをサラウンドで鳴らせる、というスペックにまで、
開発が進んでいることは、当時知る人は殆どいなかったと思います。
もちろん私も知りませんでした。

ただ、唯一私が知っていたのは、私がバークリー時代に触っていた高価な機材が、
ゲーム会社には既にあり、しかも入社時に、私がリクエストするものは何でも買い与えてもらえる、
という夢のような環境があるということでした。

まだまだ自分でハイエンド機材を買うような余裕の無かった私としては、
こんなチャンスに飛び込める機会を逃すまい、と、早速応募してみました。

たまたまアメリカで仕事をしていた経験、またミュージシャンとしての経験を買って頂き、
「ちょうどこれから、ハリウッドとともに大型タイトルを手掛けようとしている。
どうやったら映画音楽のクオリティに出来るのか、研究して欲しい」という、
信じられないようなポジションでのスタートでした。

とはいっても、最初にした仕事は、まず前作のゲームをクリアすることでした
(しかもこれが最大の難関だった・・)が・・

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1999年から2004年にかけて、ゲームサウンドのクオリティを、
DTMから映画音楽のレベルに引き上げるという、本当に素晴らしい経験を沢山させて頂きました。

それこそ映画サントラの完全コピーにはじまり、音楽に関わるありとあらゆることをやりました。
契約、ライセンス、ブッキング、ミキシング、マスタリング、サラウンド・・
Harry Gregson-Williamsから送られてくるPro Tools Sessionの各トラックを聴きながら、
「どうやったらこんな音が出来上がるのか・・」を、朝から晩まで考えていた気がします。

そんな中、作品を作り続ける度に、
「もっとミュージシャンの生演奏を生かした作品を作りたい、演奏家の仲間にも貢献をして行きたい」
という気持ちが強くなってきました。

制作では、最初にプレゼンの「デモ」を作るのですが、ここには基本的に予算はありません。
でも、ここで生の録音をしていないと、例えばオリジナルの演奏サンプルをエフェクトで
飛ばしまくってアレンジとするような作品は、作れない・・という現状もまたある訳です。

なので、ゲーム会社にいた頃はこの辺は自腹で払って作っていたのですが、
それではできる仕事にも限界があります。
自分で制作総予算を管理出来れば、もっとプロジェクトに見合った曲の作り方が出来て、
トータルでのクオリティアップ&コストセーブにつながるのではないか?と考える様になりました。

そこで、「独立」というアイデアが出て来ました。

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2004年12月、Metal Gear Solid 3のリリースを見届けて、ゲーム会社を退職。

すぐに自分の会社の設立に取りかかりました。
一瞬も無駄にするまい、との気持ちから、失業保険をもらうことも忘れていました・・・

2005年2月にはジェム・インパクトが立ち上がりました。
仕事があって会社を始めた訳ではないので、最初のプロジェクトは、
まず自分のポートフォリオともなるCDを作ることでした。

幸いにして、KING RECORDS内のレーベルBellwood Recordsから
「燈(あかし)」というアルバムを出させて頂く機会を頂きました。

実はまだゲーム会社に所属していた頃、趣味でクラブジャズのバンドを作って活動していた時代に、
メジャーデビューしかかっていたことがあったのですが、
人間関係のもつれが原因で、その話が立ち消えになってしまった経験がありました。

自分のソロアルバムを作るにあたって「今度こそは」という気合と思い入れがあったのですが・・・
結果としては思ったような成果にはつながらず、
レコードビジネスの厳しさを見せ付けられた感じがしました。

それ以後、音楽制作の「コスト」に対して、非常にシビアな考え方が出来るようになったのは、
とても良い経験となったと思います。

まだMetal Gear Solidの作曲家は、誰もがHarry Gregson Williamsと信じて疑わなかったこの時期、
日比野とはどこの誰ですか、という状態だったのですが、
当時の電撃プレイステーション編集長の倉西誠一さんが、たまたまMetal Gearのファンで、
本当に好意的にいろんなところで私の紹介や、バックアップをしてくださいました。

倉西さんの存在がなかったら、今のGEM Impactは有り得なかったと思います。

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ジェム・インパクトは、並行してボーカルスクールを経営していました。
「目黒川STUDIO」という名前で、社会人のOLの方を対象にした、
当時としては低価格の1時間4000円プライベートレッスン、専用CD付きという内容でした。

リクエスト曲を頂いて、MIDIカラオケを作っておき、歌を録音して即日お渡しする、
というサービスが好評を得て、「ケイコとマナブ」の特集で紹介され、
延べ生徒総数300人に至るまでに成長しました。

半年に一度、渋谷のライブハウスを貸し切っての発表会など、好調な展開を見せていたのですが、
同時に小規模でアットホームに展開していたときと、
システマチックに展開したときの会社としての負担の違いを、身にしみて感じました。

また従業員のケアということが、どれほど大事であるか、気づかされました。
「事業は大きければよいのではない、それぞれにふさわしいサイズとやり方がある」ということを痛切に感じました。

2006年、かねてから暖めていたライブハウスのイメージを、
私の手の届く投資でも実現できそうなとても良い話が舞い込んできました。
六本木の40席ほどの居抜き店舗です。立地もライブハウスとしては申し分なく、
「これはまたとないチャンスだ」と、9月の契約から2ヶ月で、
"vanilla mood六本木"オープンにこぎつけました。

映画館時代の経験があったとはいえ、
何でもかんでもまずは自分でやらねばコストになってしまう現実があり、
とにかく人に聞いて教えてもらい、ビールサーバーのメンテナンスから照明、音響、
深夜営業のカウンター接客など、何でも出来ることはしました。
オープンでは、本当に多くの暖かい励ましと手助けに、助けられました。

しかし、さすがに通常の音楽制作の業務と、演奏と、スクールと、店と・・というのは
オーバーワークを引き起こしました。
車の居眠り衝突全損事故を起こしてしまったのです。
サイドビジネスを展開して本業がこける話はよくありますが、リモートの事業が1つ増えただけで、
これだけ業務が大変になるのか・・と痛感しました。

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Vanilla mood六本木では、若手のアーティストの皆さんが日夜演奏を繰り広げてくださり、
深夜のジャム・セッションもあいまって、本当に素敵な出会いがたくさんありました。
今でも、思い出すだけで嬉しくなります。これが、ライブハウスを経営することの醍醐味なんでしう。

継続できるものなら継続したかったのですが、私のスタッフのケアが足りなかったせいもあり、
コアスタッフの突然の退職、ビルオーナーとの揉め事など、閉店を余儀なくされてしまいました。
損害に対し弁護士を立て交渉をしていたのですが、「人を訴える」ということが
どれほど自分をぼろぼろにするのか、ということを感じ、「どちらが正しいか」でなく
「自分の心の平安」を得る事を結局は選択しました。

お金だけでなく、せっかく積み上げてきた信頼、実績をすっかり失ってしまった気持ちでした。
合わせて、「日比野のそばには近づかない方が良い」などの噂も飛び交い、それをきっかけに
交流が途絶えてしまったアーティストも数多くありました。

本当に悲しかったですが、こういうときは本業回帰をして着実に地固めをするしかない、と判断し、
程なくして2009年6月には、個人のときから含めると7年続けてきた
ボーカルスクールもクローズすることにしました。

ただ、この波乱万丈の中、どんな噂にも惑わされず、共に歩んでくれた人達がいました。
その方々に、どれだけ支えられたか分かりません。
本当に心から感謝しています。

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本業回帰をしたGEM Impactは、新たな軸として「パチンコ」の楽曲製作に特に注力しました。
パチンコのサウンドクオリティの向上が著しかったこの時期、厳しかったGEM Impactを蘇生させるのに、
弊社の作家陣のサラウンド向けトラックメイキングの力が、こんなところで役に立つとは、本当に天から
降ってきた恵みのような気持ちでした。

また、数年来にわたって撒いてきた海外のタネが、少しずつ実り始めてきました。
サンフランシスコでのGame Developer Conferenceでの、
日本のゲームサウンドビジネスに関する講演を細々とさせていただいたのですが、
その会場に居合わせた何名かが、その後のGEM Impactの海外拠点のキーマンとなることになりました。

海外でこのような心の通うパートナーを持てることは、
本当に心からの喜びです。
本当に心から感謝しています。

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かねてからの友人であった、劇団四季のOB、山崎義也くんと話をしているうちに、
劇団員として活動している方々の実態について、いろいろと知れば知るほど、
このような気持ちになってきました。

「劇団の皆さんは、歌えるし、踊れるし、かつ、魂を込めた演技が出来、
しかも社会人として厳しいトレーニングを受けていて、本当に礼儀正しいのに、
その才能に対する評価が、あまりにも低すぎる!
彼らは、せっかくすばらしい賜物を受けているのだから、それはもっと世の中で用いられるべきだ!」

パチンコの音楽制作のニーズが多くなってきて、
ボーカリストとしても劇団の方にお願いすることは何度かあったのですが、せっかくなら「声優」
として、活動できる機会が出来れば、どんなに良いだろうか?

そう思い、山崎くんの紹介の元、片っ端からいろんなタイプの劇団役者のボイスサンプルを
とりためました。
それから1年後、音声収録はGEM Impactの一つの大きな柱にまで成長しました。

すばらしい賜物を持つ方は、本当にたくさんいます。
みんな、何かを持っています。
でも、自分でそれに気づいていない方が、結構います。

もったいないことです。

才能は天からもらうものですが、それを引き出すのは人の仕事です。
それをお手伝いするのが、今のGEM Impactの仕事ではないかと思っています。。

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ゲームなどの娯楽コンテンツの音楽制作の中で得た、
超高音質音源のサウンドプロデュース・エンジニアリング経験を生かし、
2008年末に日比野音療研究所を立ち上げ、心の癒しをテーマにした音楽制作を行っています。

特に着目しているのが、森林のせせらぎなど、自然界に含まれる可聴範囲外の高周波成分。
これが人間の心身に良い影響を及ぼすことは十年程前から知られていましたが、
耳で聴こえないはずの高周波をどのように人間が受容するのか、
というところに関してはまだまだ研究の余地が残されています。

当初は「音楽で人を救いたい」と思っていたので、重度の認知症の方が入居する高齢者介護施設や、
末期がんの方といった医療的解決が見いだせないような現場をあえて選んで、
改善の一助になればと思い、高周波再生が可能なシステムを用いて活動を行ってきました。

ところが、なかなか思うような成果が上がらず、末期がんの方も亡くなってしまい、
「音楽では人は治せない」という現実を突きつけられる結果となってしまいました。
そんな時、ホスピスで一切の延命治療なくご主人を看取った奥様のブログを発見しました。

最後の三日間、ただずっと手を繋いでいて、そのまま穏やかに亡くなっていかれた経過を、
このように書かれていました。


「人生をいかに生きるかということの価値観は十人十色だが、
多様な価値観が認められる今日にあっても、
人生の豊かさに不可欠な事は愛情であることを肝に銘じておく。」


私の、「音源療法」に対する考え方が一変しました。

そもそも、人を癒すのは神様の仕事である。人の命も、全て神様の手の内にある。
私がすべきことは、人々が人生を豊かに生きられるような
「愛情を感じられる音楽」を届けることである、と。

愛情とは、自分の力で頑張っている人にとってはいらぬおせっかい。
でも自分が弱い中にあったり、孤独だったり、飢え渇いている時には、
全てを失ってでも手に入れたいもの。

音楽が、その一助となれば、私にとってこれに勝る喜びはありません。

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日比野音療研究所の活動の目標として、
「創造から伝達まで、一貫した「音による安らぎ」の体験を
一人でも多くの方に提供すること」をミッションとしてきました。
ジェム・インパクトは、音楽制作&ローカライズという
エンタテインメント業界におけるビジネス・ソリューションですが、
日比野音療研究所は、そこで生まれた利益を
いかに社会の必要とされている所に寄り添うために
有効に使う事が出来るか、を考えています。

「音による安らぎ」を追求し続け、たどり着いた2つの出来事がありました。
一つはハープセラピーとの出会い、もう一つは新型スピーカーです。

ハープセラピーは、たまたま私のアメリカの友人のつながりで
ホスピスにて見学する事が出来たのですが、もう意識のないような
方に寄り添って、祈りとともに、その方の呼吸や状態に合わせて
アドリブで演奏していく様は、本当に目から鱗が落ちる思いでした。

音楽は表現の方法であると思っていた私にとって、
目の前の一人に、完全に寄り添い、祈りのツールとして
奏でられる音楽は、全くの別物でした。
その最期のいのちが、平安に満たされ
安心して天国に向かうように感じられてなりませんでした。
そこには「自分」というものは完全にありませんでした。

もちろんそのような心を持つハープセラピストが、
あらゆる病院、在宅ケアのもとに伺って演奏出来れば一番ベストだと思いますが、
それは経済的にも、また人材という面でもまだまだ遠い道のりです。
私ができることは何か、と考えた時に、
なんとか演奏家が、ステージの上から一方的に奏でるのではなく、
来られた方一人一人に寄り添うような形のコンサートが出来ないか、と思いました。

映像と音楽を通じて、
そして終焉医療の現場を知る医師やチャプレン等のトークを通じて、
人が生まれてから命を終えるまで、どれだけ多くの人に愛されて生きて来たか、
また「死」というものを見つめながらも、「天国への希望」を感じられるような
そして、どんな中にあっても生きていく希望を持つきっかけになれるような
コンサートを目指して、「天上の音楽」と名付けました。

こちらが寄り添う、という姿勢に立つためにも、
極力最小限の入場料、もしくは無料公演で開催しています。

開催を始めてから1年、
今ではその開催費用や主催等、ご協力頂ける方が次々と与えられ、
毎月のようにコンサートが開催できるようになり、
より多くの方々にこの体験を分かち合うことができるようになっていることを、
本当に感謝しております。

新型スピーカーに関しては、
日比野音療研究所の開設以来ずっと取り組んできましたが
「天上の音楽」のコンサート開催をきっかけに、
随分と開発が前進するようになりました。
ヨットの形をした全く新しい構造のスピーカーで
一つのドライバーが曲面の板、船体、ドライバー表面の3つを
駆動するという、全く新しい仕組みです。
いわゆるコイルが前後に動く事によって空気振動を作り出す
通常のスピーカーとは音の性質が全く違い、限りなく
生楽器に近い発音原理で、音の遠達性が良く、
体が悪い状態でも聞き疲れしにくい性質を持ちます。
これに弊社の本質である高音質音源を組み合わせた
トータル・サウンドケア・システムを現在開発中です。
信じられない事でしたが、拒絶査定無しのストレートで
特許も取得する事が出来ました。
今新潟STUDIOでは、このスピーカーの開発、そして音源ライブラリー開発が
全力で進められています。
お金も経験もないに等しい私たちに、スピーカーの開発など
出来る訳がない、そんな無謀なこと、危険すぎる・・
など、挫折する理由がいくらでもあるこのプロジェクトですが、
本当に不思議なことに、次から次へと助け出が与えられ
前に進んでいくのです。
今では、これは、どんなに大変であっても、
「私たちに与えられた使命だ」との認識の元に、
あきらめずに、やり続けていこう、と思っております。

コンサートにお越し頂ける方には、リアルな「音による安らぎ」を
お越し頂けない方には、バーチャルではありますが、
この新型スピーカーで音の安らぎを感じて頂き、
それらが一人でも多くの方の、平安と希望の灯火となることを
心から願っております。